はぐれ日記 印象派

音楽と空気と動き、あと雑記。妄執にとらわれて | https://twitter.com/nakano_in

水を弾く人

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ある時、水槽の割れ目から
ピシッと鋭い音がした。あっ、割れる、と思った。
青色や赤色の小さな魚が入った水の塊は、薄い緑色の藻に囲まれ、さらにその周りを薄い、薄いガラス面で覆われていた。その境界線が今、まさに壊れようとしていた。
無意識に手を伸ばし、音の元に近づけ、閉じようとする。
パキッとさらに音がして、ガラス面の一部、壁面の真ん中が崩れようとした時に。
伸ばした手の先、さらにまっすぐに伸びた指先が、崩れる瞬間のガラス面に触れそうになる。
「触れたら切れるかもしれない」というイメージが頭の中に広がる。青色、赤色、さらに赤色。
指先がガラス面に触れる前に止まる。その距離わずかに1cm。透明なガラスの破片がいくつか、剥がれて落ちる。
あぁ、いけない、こぼれてしまう。
そう思った時、不思議なことが起こった。水がこぼれない。
ガラス面は、確かに割れている。縦横数cmの平行四辺形の形をした穴が、白く鋭い切り口の断面に囲まれて開いている。
本来その穴から外に飛び出すはずの水は、断面の内側でぬるりとうねる。
わたしはしばらく、伸ばした腕の先の、手の先の指を動かすことができずにいた。
割れた水槽からこぼれない水を、じっと見つめていた。
呼吸をすることすら忘れていたかもしれない。起きたことを頭の中で再生し、少しずつ追いつこうとする。

土曜の午後の日差しが天窓から差し込み、水槽の中で反射し、その一部は割れた穴からわたしの指先にも届いていた。
水と空気と光が調和し、絶妙のバランスで支え合っている。少しでも動かせば、崩れる。
そう思ってふと息をつくと、ドポンと水が飛び出て小さな滝が生まれ、飛沫を飛ばしながら無垢の床を濡らした。

【雑記】ジャコメッティの眼の中

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 国立新美術館ジャコメッティ展を見に行ってしばらく経つが、どうにも気になって腑に落ちない。

ジャコメッティと言えば、手足のついたマッチのような細長く、細かく歪んだ金属の彫刻のイメージがあり、今回の美術展のポスターでももちろん見たし、たぶん小学校のときの教科書に載っているレベルの超有名アーティストなわけなので、知っているつもりになっている。

ところが、実際の作品と解説文を見ると、どうにも奇妙だ。彼は「自分の見たものをそのまま、彫刻で再現しようとした」というのだ。彼の見たもの、そのものとは何か。「印象」であれば話は早い。人の儚さ、弱さ、社会の中で孤立する姿、存在の不確かさ。そういうものを表現したというなら、理解がしやすい。ただ、どうやら違うらしい。

見たものをそのままの姿で現そうとした結果、作れなかったり、彫刻が小さくなり過ぎたり、胴体が棒人間のような猫の像を作ったりしたという。不思議だ。彼が固執した見たまま、というのは一般的なリアリティとか、写実性とはまったく違っているし、「印象」とも重なり切らないように思える。印象だけを定着させるのであれば、モデルを何ヶ月も拘束して、同じポーズを要求したりしないはずだ。1日じっくり観察し、スケッチを描き、頭の中に閉じ込めたイメージを元に制作することで十分なのではないか。

でも彼はそれで満足しなかったらしい。印象ではない何か、「ヴィジョン」「人間の本質」の定着を追い求めたためだろうか。

 

展示の最後の方では、晩年に取り組んだパリの街角のリトグラフを多く見ることができる。彼は「知っているはずのパリの町も、眺めれば眺めるほど見知らぬものに見え、発見がある」というようなことを言ったらしい。この感覚は少し分かる。違う天気、違う光の中、違う気分、違う体調の中で、または、知っている道から一本奥に入り込み、知らない道を歩くとき、知っているはずの景色はまったく異なるものに見える。

それを、人間に対しても感じ、その異なる瞬間を、時間の積み重ねを、金属の像に定着させようとしたなら。そんな、気がおかしくなりそうな仮定をすることで、ほんの少し彼の作品の歪みや弛み、震える表面の意味がわかるような気もする。

でもやっぱりよく分からない。本当のところはよく分からないから、本人に聞いてみたい。あなたに世界はどう見えているのか。目の前の人はどう見えているのか、と。

イルカショーと赤い缶バッジ

お題「この色が好き」

 

イルカショーが始まる15分前に、僕らは席についていた。イルカの泳ぐ楕円形のプールを囲む半円の観客席に、真っ青なベンチが並んでいた。

僕らが座ったのは前から6列目くらい、中央から30度ほど左側。映画館で考えてもまずまず良い席に思えた。

最前列2列はオレンジ色のベンチで、みんな直感的に座るのを避けていた。まだ真夏には遠い梅雨入りの季節、水しぶきを浴びなくても十分な湿気を帯びた空気が辺りに充満していたし、その日は雨だった。

 

僕らはお互い、土曜日の午前中の部活を終えて、何となく水族館へ向かった。するりと落ち合い、いつも通り語らい、目的もなく海辺を歩いて行くと水族館へたどり着いていた。入館料は安くなかったが、季節限定のキャンペーンで半額だった。彼女が入ろうよ、と言い出し、僕も賛成した。細かい雨粒が身体にへばりつき、外にいることに嫌気がさしていた。

 

イルカが準備運動をする間、少しの沈黙が訪れて、僕は会話の糸口を探して、2人の間に置かられた彼女のカバンを眺めた。紺色の側面に、お気に入りのクマの人形が垂れていて、その脇にはいくつかバッジが差されていた。バッジ、集めてるの?と聞くと、彼女は「赤いのが好き」と答えた。僕はふーんと赤い缶バッジを人差し指で軽く弾いて、イルカの水槽の水面を眺めた。油絵の具が置かれたような光が瞬時に入れ替わり、違う位置から僕の目に届いた。その様子を見ていると、なぜだかとても悲しくなった。

 

軽やかな音楽や歓声は耳に届かず、いつの間にかショーは終わっていた。周りの観客は早々に席を立ち、係員がベンチの周りのゴミを片付けはじめる。灰色の雨雲はその色を変え、徐々に白色へと近づいていった。僕はしばらく、ベンチの端に座り続けた。

城壁都市としての東京

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東京の山手線に乗って東の方面をくるりと回るといつも思うのは、線路に面してビッシリと立ち並ぶビル群が、断崖絶壁や巨大な壁、城壁みたいだっていうこと。

 

大都市はその中心を、高い壁で囲って守っている。隙間には仕事や買い物をする住人をこれまたビッシリと詰め込んで、壁の修繕と侵入者に対する防御を任せている。

 

守りは想像以上に固く、侵入は容易ではない。電車に乗り込んだ精鋭たちは、立ったり座ったりおしゃべりをするフリをしながら、壁を突破する隙をうかがう。どんなに鉄壁の守りにも、必ず手薄になっている箇所があるはず。Tシャツやサンダルでリラックスムードに見せかけながら、車窓からビル群を見つめる眼光は鋭い。

 

そうして、今だ、ここなら行けると踏めば、躊躇なく安全な電車から飛び出し、颯爽と雑踏に紛れて侵入を試みる。侵入が成功するかどうかは五分五分。失敗すれば、いつの間にか守りの勢力に取り込まれ、城壁の間でスペースを埋め、次の襲撃に備えるようになっている。

 

中央とその他を隔てる沈黙の壁。隙間から見える夕焼けの空がゆらゆら、黒光りするガラス張りのビルの壁面に反射するのが見えた。

 

梅雨が明け、良い夕焼けが増えるような気がして、何だか少しソワソワする。

 

 

夢診断とコントロールの憂鬱

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私は、昔から変な夢を見ます。目が覚めても内容を覚えていて、次の日もまた同じ夢を見たりします。
夢の中で私は鳥のように空を飛んだり、傘をさすと風に飛ばされたり、ホテルの床が抜けて落ち続けたり、釣り針が腕に引っかかってそのまま海中に引きずり込まれたり、とにかく碌でもない目に会うのです。そうして汗だくで目が覚め、しばらくの間、その碌でもない感覚だけを思い出すことがありました。お腹の中が浮き立つような感覚や、手の中のものがとんでもない速度で飛んで行き半身を持っていかれる力強さ、金属が腕の中に入り込み、骨に引っかかる痛み。これらの思い出したくない感覚が強く再現されては、一日がとても憂鬱になるのです。
それを避けようと思い、対抗手段を考えるようになりました。まずは良い夢を見る訓練。寝る前に素敵なことを考え、そのまま眠りにつくことで、美しい夢を見れば良い。私は好きな人と一緒に桜の坂を歩き、空はどこまでも晴れ渡り、桜の花はほのかに香り、カフェのテーブルの上にはおしゃれでヘルシーな、写真を撮りたくなるランチが並びます。ところが、夢のはじめが美しくても、後半になるといつもの混乱の中、好きな人に追われ、桜の花は無残に散って空は焼け落ち、テーブルの上のご馳走は立ち上がって復讐を開始する。結局のところ、夢をコントロールできなければ意味がないことがわかりました。
夢をコントロールするにはどうすれば良いのか。夢の内容をメモ帳に、覚えているストーリーと、見た映像をできるだけ詳細に記録していきました。そうしてその要素に意味付けをし、なぜその夢を見たのかを考えます。深く検討し、それなりに妥当性のある答えを導き出していきます。時にそれは、自分自身の過去や向き合いたくない内面との対決を意味しています。思い出したくない記憶を詳細にノートに書き出し、言葉の意味を検索して色のイメージや映像と結びつけ、逃げ出したくなるような恥ずかしさや、口に出してはならない欲望と対峙するのです。
するとどうでしょう。夢の内容を思い出すことができるのはもちろんですが、一度見終えた夢をその続きから見ることができるようになったのです。夢をアレンジし、見たことを覆して見ていないことを差し込み、見たことにする。明け方に自分の記憶を騙して、都合の良い記憶に差し替えていると言っても良い。私が身につけたのは、夢に対して嘘をつき、夢を盗み取る技術と言えるかもしれない。夢を騙すためには、夢のことを良く知る必要があったということです。ノートに書かれた研究結果は、日に日にその量や質を増していき、今は部屋を埋め尽くしてしまった。アウトプットと研究の量に比例して、夢のコントロールは大胆で緻密になり、毎晩構築される世界はどこまでも広く深まっていく。
困ったこともあります。3ヶ月くらいした頃から、私の目の前の人や景色が夢に現れた物語なのか、現実の友人の話なのか、私が体験している現実なのか、判別できなくなってきました。普通は自分の体験が最も緻密でリアリティのあるものになるはずなのですが、人は訓練次第で記憶と体験の密度を変えることができる、ということでしょうか。今の私には自分の体験と他人の体験、夢の中での体験は等しくリアリティがあり、それらを見分けることが難しいのです。自分の体験以外の想像や記憶は、どれも訓練次第で見え方を変えることができる。目の前に座って話す人と、水平線の向こうで眠りにつく人はまったく違う距離にいますが、頭の中の望遠鏡を駆使することで、はるか彼方の人を目の前に引き寄せるのです。それは身につけてしまえば簡単なことで、自分と他人、現実と夢、近くと遠くの境は曖昧になっていきます。自分で気づくことが難しいほどに。
私は恐ろしくなって、夢を記録することをやめました。

無人島レコード問題の結末

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この手紙を読んでいる人は、おそらく海の近くに住んでいるか、海水浴場に泳ぎに来た人でしょう。それとも漁師か、釣りが趣味の人でしょうか。ともかく、私はこの手紙を赤いビニールでくるみ、頑丈そうな瓶に詰めて、海に流すつもりです。いつか、誰かの手に届くことを期待して。
私はこの手紙で、助けを求めようとしている訳ではありません。だから安心して最後まで読んでほしい。大変だ、と思って手紙を放り投げ、通報をしたりレスキュー隊に連絡したり、マスコミに持ち込んだりする必要はありません。起きてしまったことはどうしようもないし、助かる見込みもほとんど無いでしょう。
私がこの手紙を書いているのは、そう、ご想像通り、無人島です。信じられますでしょうか?こんなに分かりやすい状況、これほどにテンプレート的と言える状態に自分が置かれていることに、私自身驚いています。私に見えるのは、おそらく太平洋の、どこまでも広い海、海、海。島の周りの気候は穏やかで、波が荒れることすらほとんどありません。朝日や夕日はとんでもなく美しく、時折降る雨はかなり高い確率で虹を発生させます。虹の向こうに見える青空と海鳥の羽ばたきの、なんと美しいことか。そうした景色を見ていると、自分の置かれた状況をほんの少しの間、忘れることができるほどです。
私の置かれた状況とは何か。無人島でひとりぼっち、そのものです。なぜ私はこのような状況に置かれることになったのか?始まりは、テレビ番組の企画に応募したことです。テレビ局がスペシャル番組のために、WEB上で懸賞付きのアンケートを実施していました。アンケートの内容は、「無人島に1枚だけ音楽アルバムを持っていけるとしたら、あなたは何を選びますか?」そして、「無人島に行ってみたいですか?」
あまりに馬鹿げたことなので、逆に想像もできませんでしたが、このアンケート内容は本気だったのです。私はおふざけで、好きな音楽アルバムの名前と、「規約に同意して応募する」にチェックを入れ、「無人島に行ってみたい」にチェックを入れて、「応募」ボタンをクリックしました。あのオレンジ色のボタンを押したことがすべての間違いです。オレンジ色のボタンと、それを押した私を恨んでも恨みきれない。今でも島の木の実や果物で、鮮やかなオレンジ色のものは取るのを避けているくらいです。
話はそれましたが、どうやら抽選の結果当選したらしく、テレビ番組の制作会社ディレクターを名乗る人物から、番組参加のオファーが届きました。その内容は、約1年間、無人島で生活してみないか、というものでした。その時の私には、あぁ恐ろしいことに、このオファーが魅力的に感じられたのです。私には仕事があり、恋人もいましたが、何やら自分を取り囲むあらゆるものに不満を感じており、何か、ちょっとしたきっかけを求めていたのです。ほんの少し、時間をかけて、何か他の人と違うことをすれば、道が開けるのではないか。ほんの少し、面白い体験ができれば、その後すべての人生の角度が、より望ましい方に傾くのではないか。そんな思いがあったのです。
私は勢いで会社を退職し、無人島に向かいました。それでも後悔はしていなかった。ディレクターの男は、番組をおもしろくするために、見た目上「厳しい生活、サバイバル感」を出す必要があるが、その実裏では生活に必要なものは用意し、ドクターやレンジャーをいつでも呼ぶことができる環境を用意している、と言い、私もそれを信用していたのです。しばらくの間、その話は本当でした。数週間に一度、どこか近くの島からでしょうか、ヘリでドクターがやってきて健康診断をしてくれました。カウンセラーらしい女性も同行しており、私の話に耳を傾けて不安を解消してくれたものです。また、ヘリには生活物資が積まれており、それを置いて行ってくれた。島の中腹の平野には、簡素な小屋が建っており、その中には生活に役立つ品物がストックされていたのです。
ですが、そんな状況は長く続きませんでした。ある時、暑い、暑い夏が終わり、太陽の光が少し緩んだ頃に、突然ヘリが来なくなったのです。はじめは何かの間違いか手違いだと思い、釣りや狩の真似事をして気を紛らわせました。小屋の近くで毎日、カメラの前でその日の出来事や気持ちを語る日課も欠かさず行い続けました。ですが、1週間、2週間、3週間、1ヶ月。待ち続けても、ヘリがやってくることはありません。それでもまだ、この状況も演出のうちではないか?と思い込むことにして待ち続けました。あのディレクターの男、丸メガネの演出手法ではないか?と。そう思うと腹立たしかったのですが、ヘリが来ない言い訳の中では説得力がありました。社会実験の名の下に、人を無人島に行かせるよな人間です。ちょっとばかり人を放置しておくことくらい、日常茶飯事なのではないか、と。
そうしているうちに半年が過ぎ、そしてこの前、遂に約束の1年が過ぎました。過ぎたはずです。正確な日付はカウントしていません。誰も、島にやってくることはありませんでした。もしかすると、何らかの事故で彼らスタッフは全員亡くなってしまったのではないか?もしかすると、テレビ局自体が潰れてしまったのではないか?それとも、考えたくはありませんが、戦争や天変地異や何かで、私の故郷やもっと広い範囲の人が死に絶えてしまったのではないか?
確かめようとしても、この島からは何もわかりません。この砂浜から見えるのは、1年中変わらない青い空、白い雲、どこまでも伸びる地平線、そして輝き続ける太陽だけです。そうしてそれらの美しい自然が、私の頭の中で悪夢を生み出してしまうのです。空間と時間の無限性は、一人の人間の精神で制御できるものではありませんでした。
この手紙を受け取ったあなたにお願いしたいことは、この手紙を読んでください、ということだけです。それで私は救われる。誰かが島の外で生き続けており、この手紙を読んでさえくれていれば、私は十分に救われるのです。
つまり、この手紙を出した時点で、その確率は生じ、私の心の何割かが救われる。すでに救われている。

 

そういえば、あなたなら無人島にたった1枚だけ音楽アルバムを持っていけるとしたら、何を選びますか?
経験者としては、「本当に好きなものを選ぶな」とアドバイスしたい。2度と見ることができない世界の懐かしい記憶を、思い出してしまうだけだから。

本読みの暗号

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10数年ほど前に突然、「本」の虜になりました。
「本」は昔の人が情報を得るため、または、物語を読んで感情を動かすために使っていた道具の一種で、紙に文字を印刷し、それを数百枚程度重ねた紙の集合体を指します。今では実物の紙に触れることもは少なく、本となると公的機関に保存されているものにアクセスするしかありませんので、一部特権を持つ人以外は通常触れることはないでしょう。
10数年前までは一定数のコレクターがいて、連絡を取れば本を借りることもできたのですが、現在は本の所有自体が禁止されており、骨董品として売りに出される「隠し本」を手に入れて読むくらいしか手がありません。隠し本とは、一見して本には見えない道具の中に本を仕込んだもので、たとえば古い電化製品や、アンティークな家具のふりをして売りに出されるのです。もちろん、その所持や製造は厳しく取り締まられています。
それでも、活字の誘惑から逃れることはできず、仕事のために築いたあらゆるネットワークを駆使して、隠し本の出品情報を得てはそれを手に入れました。
そうして、手に入れた本は何度も、何度も繰り返し読み続けました。文字情報は現代メディアと違い、取得できる情報にある種の「揺れ」が生じるのです。いや、文字として書かれている情報は常に一定なのですが、受け取り手の状態によって、受ける印象が毎回異なってくる。これを体験してからと言うもの、本を読まずにはいられなくなったのです。
一時期は、本以外で情報を取得しない時期もありましたが、今は少し落ち着いて、現代メディアから情報を得ることができるようになりました。本だけから情報を得ようとすると、この世の中から切り離された孤島の上にいるような気持ちになり、耐えきれなくなってしまったのです。
ところで、本を読んだ人と感想を言い合ったり、内容について語り合ったりしたいのですが、私のまわりには本を読んだことがある人がほとんどいません。とてもおもしろいよと、信頼できる友人数人にも勧めてみたのですが、なかなか読んでもらえません。お金も時間もかかり、リスクも負う趣味なので、しょうがないといえばしょうがないのですが…。
さて、10年ほど前に最後まで抵抗を続けていた本のコレクター達ですが、彼らがどうなってしまったかご存知でしょうか。自慢の本を守り抜こうと逃亡を続けた彼らは地の果てまで追い詰められ、名前を隠して全国各地に散り散りになってしまったと言います。そうして、一部のアンダーグラウンドネットワーク上でのみ、お互いに連絡を取り合うことにしているのです。彼らはお互いをハンドルネームで呼び合い、決して名前を明かさない。そして、昔の本に書かれていた文章にちなんだ不思議な言葉の暗号で、お互いが正しく本読みであるか判別すると言うのです。
今日ここに書き込んだのは、わたしもその暗号を知りたいからです。隠し本を数十冊集め、それらを暗唱できるほどに読み込んだわたしには、本読みを名乗る資格があるのではないでしょうか。
これを読んだ本読みの方、もしくは本読みの知り合いの方は、どうかわたしにアクセスしてみてください。本について語り合いましょう。あなたがまだ読んだことのない本を、わたしが持っているかもしれない。
本の中の情報は孤独です。世界から切り離された孤島です。しかし、その島の海岸からは他の孤島が見えている。次に行くべき島が、もしかしたら泳ぎつくことができるかもしれない距離に見えているのです。
わたしはリスクを取って、次の島に向かって泳ぎ出すことを止めることができませんでした。あなたもそうでしょうか?